今年の6月に熊本県の私立高校で必修科目の未履修が発覚してから、急に先月相次いで、全国の私立・国公立高校で未履修問題が生じました。

 この状況は、今月以降もまだまだ拡大するものと思われます。
 
 なぜ各校が学習指導要領を守らず、受験最優先にしてしまったかを考えなければなりません。
 
 この背景には、「ゆとり教育」が関係しているのではないでしょうか。「ゆとり教育」も、当初の理念からずれて、“じっくり基礎も教えず、独創的な考えを持たせる”なんてことは、あり得ないでしょう、と私は思います。

 そして不幸なことに、ただ時間にゆとりを持とうとして、どんどん教科書の内容や授業時間を削っていってしまったのです(これじゃあ、ゆるみ教育だ)。

 そこに加えて、いわゆる受験名門校といわれる学校が、必修科目を未履修にして、受験科目のみを履修させるように仕向けていったわけです。

 どうでしょう、みなさん。これは「世界史」がどうのこうのといった、単なる教科科目の問題ではありません。

 私は吠えます。今こそ「教育」と「学ぶ」について考えるべきだと(今回は、教育問題なので、いささか熱くなりまっせ!)。

「教育」とは、読んで字のごとし、「教えて育てる」ことです。

 国語辞典には、こんなふうに記載されています。

「教える」・・・①知識や技能などを身につけるように導く。②自分の知っていることを知らせる。③さとす。戒める。

「育てる」・・・①成長させる。②養育する。

「育む」・・・・①親鳥がひなを羽で抱いて育てる。②養い
育てる。③大切に守って成長、発展させる。

「学ぶ」・・・①習い行う。②教えを受ける。③学問をする。勉強する。

「習う」・・・①くりかえし修める。②教えを受ける。

「学問」・・・①学び習うこと。②体系化されたいっさいの知識。②学んで得た知識。

「勉強」・・・①精出すこと。ほねおること。②学問につとめはげむこと。③安く売ること。

 言葉あそびのようで恐縮ですが、学問や勉強をする者から見れば、「教える」は受動的に「教えられる」、「教えを受ける」に変わります。
 
 この場合、大事なことは次のとおりです。いかに「教える」人に情熱があって、「教え方」すなわち「教える技術」が巧みであっても、「教えられる」人が、それを真剣に受けとめなければ、その知識は身につかないのです。自ら「学ぶ」気概と真摯な態度が必要なのです。

 そもそも受験に必要ない科目だから全く履修しない。でも、それは「教育」する義務というより、むしろ「学ぶ」という権利を放棄することになってしまうのです。

 もちろん生徒(学生)が「学ぶ」ことを望んでいるのに、学校側の都合で、その「学ぶ」チャンスを奪われてしまうようなことが絶対にあってはならないのです。

 ちなみに、私は「学ぶ」のも「教える」のも大好きな人間です。




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